117()6:20起床 ディボチェ(3,820m)晴れ→パンボチェ(3,985m)時々曇り夕方小雪

 今朝も快晴でかなり冷え込んでいる。朝撒いた水が凍っており、計っていないが外気温は−2〜−3℃ぐらいと思われる。坂道の霜柱は日が当たり11時を過ぎる頃になると解けてぬかるみになり、滑って歩きにくい。右前方にはAmadablamが白く輝いている。
 予定ではタンボチェ
2泊であったが今日は少し先のパンボチェ泊まりに変更した。行動距離が短いので8時過ぎに出発、左下にイムジャ・コーラの流れを見ながらアップダウンを繰り返し30分ほど進むと橋を渡り右岸に出た。なだらかな登りが続き、やがてチョルテンが見えて来た。門を通り過ぎると左手にヒラリー卿の作った小学校が有り、さらに進むと小さなゴンパが有り、その裏手が今日お世話になるゴンパ・ロッジであった。
 パンボチェの村にはイムジャ・コーラに近い下村
(オリム)と上村(テリム)2つに別れているが今回泊まるのは上村。
 昼までに時間が有ったので、高度順応を兼ねて裏山まで登ってみた。北方向に少し上ると学校があった。今日はお祭の最後の日で休みなのか、誰も居なかった。学校の裏手からルンタのはためく黒い山の方へ向かった。
250mほど登ったであろうか、そこからはAmadablamKangtega(6,779m)Thamserkのパノラマが展開していた。写真を撮り、1時間程でロッジに戻り昼食、その後、貯まった汚れた靴下を洗濯した。
 このロッジにはホットシャワーの設備が有り、
5日ぶりに体を洗うことにした。シャワーと言っても庭に小さな木造の小屋があり、下には砂利、その上に板のスノコが引いてあり、屋根の上にはブリキ缶のタンク、その中へ薬缶で沸かしたお湯と、水を入れて混ぜ適当な温度にする。小屋の中にあるシャワーの栓を引っ張るとホースの先に付いている如雨露からお湯のシャワーが出てくると言う簡単な設備である。
 ロッジの主人は昔シェルパをしていて日本の山岳会との関係が有り、
25年前には日本に行ったことがあると言っていた。日本語も少し話せ、日本では高山病ならぬ低山病に罹り、新宿の東京医大に入院し、点滴を受けたと話していた。
 夕食の後、エベェレスト日本人初登頂者のマッキンリーで亡くなった植村直己のサインの入った碁盤を出してきて見せてくれた。主人と植村でたびたび五目並べをし、自分はいつも負けていたと懐かしそうに話していた。又、
3回もエベェレストを征服し、帰路遭難死した加藤保男が使用していたサインの入った青色のダウンのミトンも見せてくれた。その後、ドルジェ君にルールを教えて五目並べを楽しんだ。
 ロッジの庭にはカナダからの
6人の団体が来てテントを張った。みんな60を過ぎた年寄りであったが一人だけ若い高校生ぐらいの若者が居り、夜にはロッジに来てポーカーをやっていた。夕方からは雪がちらつき出した。
 さすがに此処まで来ると森林限界を越えており、釜戸やストーブの燃料にはヤクの糞を薄くし、壁に貼り付けたりして乾燥させた物を使用している。
7~8個を一度くべると1時間近く持つようだ。これ以上の高度ではゾッキョでなく、寒さや、高度に強いヤクが活躍する。ヤクはゾッキョと違って角が後に反り返るような感じで上に伸びており、腹の毛も長く、垂れ下がっている。ヤクは高度6,000mぐらいでも荷物を運べるそうだ。

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日程2